宗教は継承すべきという言い方がされてきました。信仰継承という言い方もありました。実態はどうだったでしょうか。
キリスト教の教義は、信仰はカミとの個人的な関係であることを打ち出しています。それでありながら、親が子どもをコントロールしてきた可能性は否定できません。子どもを宗教的な人間に育て上げることは正しいことと理解されてきました。宗教は正しいという前提があり、歯止めが効きませんでした。
宗教は「正常」を求めます。最初疑問を感じても、いつの間にか違和感を抱かなくなります。そうすると、違和感を抱くことが「異常」になります。宗教二世、教会二世が苦しみを告白するのはこの点です。
宗教二世、教会二世が苦悩したのは、信仰を継承した家族が価値あるものとして評価される風潮です。自分が苦しんでいることで親が評価される。子どもにとってそれは不条理です。それにもかかわらず、宗教という環境で不満の声を出すことはできませんでした。
家族主義は、誤った継承の考え方から出ています。宗教のコンテクストでは親族偏重の人事も行われます。信仰は個人的なスピリチュアリティの問題であるという教義と矛盾します。信仰は個人の尊厳の問題です。個人のスピリチュアルなニーズに応え、人間を解放し、本当の意味での健康を提供できるはずのものです。家族主義はなじみません。
宗教のネガティブ作用
宗教は親子関係について、どのような意味でネガティブに作用するでしょうか。
1 教義が絶対的であるとされ、思考停止に陥りやすい
2 子どもの気持ちより教義が優先され、子どもとの心の交流が妨げられやすい
3 親の側に心理的不全感があっても、宗教で自分を見ずに済ますことができる
4 親が子どもに対してライバル心を抱くなど葛藤を感じても、宗教体験があれば大丈夫と思ってしまう
宗教は、宗教本来の機能を取り戻す必要があります。教義を持つ宗教は、無自覚に信奉していれば毒親になる可能性が高いことを認識しておく必要があります。
宗教が本来の姿を取り戻すのであれば、自らの不十分さを認め、謙虚に修正する責任があるのではないでしょうか。修正できる柔軟さこそ、宗教の本質ではないでしょうか。
これができない宗教は、自らを省みるという宗教の本質を自ら否定することになり、自家撞着に陥ります。このことが真実になされないかぎり、教会二世として苦しむ人は生み出され続けます。
続く

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